「取り返しのつかないこと」へと突き進む小説〜道尾秀介『月と蟹』

月と蟹 (文春文庫)

月と蟹 (文春文庫)


ちょうどパラリンピックが始まったばかりだが、しばらく前に終わってしまったリオ五輪の女子レスリング。
フリースタイル53キロ級で4連覇を果たせなかった吉田沙保里選手が、その悔しさを「取り返しのつかない」という言葉で語ったのが印象的だった。

自分の、やっぱり気持ちが…
最後は勝てるだろうと思ってたんですけど、
取り返しのつかないことになってしまって…


この言葉の意味について、直前に語られた内容から考えて、応援してくれた人たちに申し訳ない→応援してくれた人たちに取り返しのつかない、という解釈も出来なくはないが、自分はそうは思わない。
ここまで続けてきた連勝を、3連覇の次を、ここで止めてしまったら、もう、二度と同じ記録を繰り返すことは出来ない…とにかくやり直すことが出来ない…失って戻ってこないことである…という自分に向けた「後悔」、「謝罪」ではなく「後悔」が強く表れた言葉だと感じた。


そのような「取り返しのつかないこと」は、五輪代表選手ではない人でも、実際には日常に多く溢れているのかもしれない。ここまで頑張ってきたことを、取り繕ってきたセルフイメージを、何より自分自身に対する信頼を台無しにする行為、リスクはいくらでもある。
痴漢や器物破損などの犯罪行為は勿論だが、ちょっとした発言が「取り返しのつかないこと」に繋がる可能性がある。


この『月と蟹』は、何かそういった大小含めた「取り返しのつかないこと」を起こしそうな予感に満ちた作品だと思う。
不吉なことが起きてしまう、悪い物に出遭ってしまう、のではない。ダメなことだと理解しているにもかかわらず、それを主人公自身が起こしてしまう。そんな想像をして、びくびくしながらページをめくってしまう。


この物語の主人公・慎一は小学6年生。4年生のときに転校してきたが、同級生に馴染めず、同時期に転校してきた春也と一緒に行動することが多い。
そして彼ら二人とは違って裕福な家庭に育った女子生徒の鳴海。
3人が、放課後に、山の中の秘密の場所(磯の疑似環境)で飼うヤドカリの世話をする、そしてヤドカリを使った儀式の真似事をする。
それが大半を占める小説である。


慎一も春也も、苛められているわけではないが、学校生活の中で常に疎外感を抱えている。
そして、生活する中で、疎外感、嫉妬、独占欲といった昏い部分が心の中で育っていく。
「取り返しのつかないこと」に突き進んでいく。加速していく。


面白いのは、その昏い部分を上手く表現しているのが、モチーフである「蟹」「ヤドカリ」であるところだ。
タイトルの蟹は、他に置き換えが出来ないほど、物語と強く結びついている。

  • 冒頭の昭三(主人公の祖父)のセリフ「カニは食ってもガニ食うなってな、昔っから言うんだ」の「ガニ」という言葉に響き
  • 「儀式」として、ヤドカリを火で炙り出すときの不気味な描写

ぽとりと地面に落ちたヤドカリの、思わぬ動きの速さが蜘蛛に似ていたこともあるが、何よりその左右非対称の姿が不気味だった(p14)

  • 父を殺したガン(cancer)と蟹の綴りが同じことから頭にこびりついて離れない「父の痩せた身体…その皮膚の下を、もぞもぞと蟹が這い回るイメージ」(p65)

「蟹」や「ヤドカリ」は、ほぼすべてが、気持ちの悪いものとして、醜いものとして扱われる。
それは、「罪」のイメージであり、「死」のイメージでありながら、「自分」を現すものである。


昭三が最期の日に言ったセリフは、タイトルの由来でもあり、作品のテーマをそのまま表している。

今日の蟹は、食うんじゃねえぞ。
(略)
月夜の蟹は、駄目なんだ。食っても、ぜんぜん美味しくねえんだ。
(略)
昔っから、そう言うんだよ。
(略)
月の光がな、上から射して…海の底に…蟹の影が映ってな。
(略)
その自分の影が、あんまり醜いもんだから…蟹は、おっかなくて身を縮こませちまう…だからな、月夜の蟹はな…
p338


まさに、恐怖から叫び声をあげて走り出してしまうクライマックスでは、月の光が上から射し込んだのだろう。
ヤドカリを通して慎一、春也の深層心理を掬っていくように描くのではなく、それぞれの気持ちの動きを直接描いていたら、それは「少年達の心の闇」に迫った下らない小説になっていたかもしれない。そうではない。本人たちにもよくわからない部分で、それこそ月の光が上から当たるまで全く気付かないままに事態は、「取り返しのつかないこと」に向かって進行していくのだと思う。
『月と蟹』は、非常にシンプルなつくりで、シンプルなテーマで、ジェットコースターのように読める小説だった。直木賞の中でもトップクラスの作品で、さすが道尾秀介、と唸らされた。
もっとちゃんと読まなくちゃ。