巧妙な構成から伝わる重さ〜貫井徳郎『愚行録』

愚行録 (創元推理文庫)

愚行録 (創元推理文庫)

ここ最近、買ったり図書館で借りたりした本を、中2の長男(読むのが速い)に先に読まれるパターンが増えた。その結果、同時に数冊持ち帰った本の中から、長男セレクションで読む優先度を決めることになり、これも激推しされて読んだ本。
結論から言うと、かなり自分の好みに合う内容だった。

ええ、はい。あの事件のことでしょ?―幸せを絵に描いたような家族に、突如として訪れた悲劇。深夜、家に忍び込んだ何者かによって、一家四人が惨殺された。隣人、友人らが語る数多のエピソードを通して浮かび上がる、「事件」と「被害者」。理想の家族に見えた彼らは、一体なぜ殺されたのか。確かな筆致と構成で描かれた傑作。『慟哭』『プリズム』に続く、貫井徳郎第三の衝撃。 (裏表紙あらすじ)

この本に関しては、ネタバレはかなり大きな要素となり、それを伏せたままでは、ストーリーの素晴らしさを表すことが出来ない。
しかし、文庫解説の大矢博子さんは、ネタバレ部分を上手く避けながら、小説の特徴を上手く説明している。

ひとつの事件についてのインタビューや会話、あるいはモノローグだけで構成される小説というのは決して珍しい趣向ではない。(略)物語の中核にある事件もしくはモチーフをより掘り下げるために、このような形式は実に効果的なのである。
が、しかし。
本書の場合は、少し違う。いや、かなり違う。
(略)ここで語られているのは被害者である田向夫妻のことだ。それこそがメインであり、そしてそれだけのはずだ。なのに田向夫妻よりも、それを証言しているインタビュイーたちの印象が強く残るのはなぜだろう。
それこそが『愚行録』の真のテーマである。

つまり、他人を評価し他人を語ることは、自分を評価し、自分を語ることに他ならない。インタビューの中から明らかになるのは、田向夫妻に関する事実だけでなく、むしろ、インタビュイーたちの考え方や人間性なのだ。
このことから、この作品に限らず、書評自体が、自分を晒してしまうという危険性を孕んでいることを挙げ、特にそれをテーマとしている『愚行録』は解説を書きにくい本だと説明している。
また、この解説には「愚かなのは誰?」とタイトルがつけられ、『愚行録』という書名の意味についてまとめられている、小説の序盤では、被害者夫婦の若き日の行動が「愚行」なのだろうと思わせておいて、「自分が見透かされていることに気づかず滔々と他者を評価してみせる証言者たち」こそが「愚か」なのだとし、言葉の選択についてこう指摘している。

愚か、という言葉に注意したい。善悪ではなく、是非でもなく、ただ愚かなのだ。悪なら断罪できる。非なら糾弾できる。しかし愚かであるということは……ただただ哀しい、と感じるのは私だけだろうか。

この指摘は、まさにその通りで、作品の重要なテーマになっている。


というように、解説では、作品のもう一つのテーマであり、構成上の重要な因子(つまりネタバレ要素)である「各章ごとに挿入されるある女性のモノローグ」については、その内容に触れずに、書名の意味と作品のテーマについて丁寧に説明されている。
こういったネタバレ要素が大きい小説の解説を書くのは難しいだろうなと改めて思いながら、さすがプロの書評家は違うな、と思わされた文章だった。


さて、以降は、解説で触れられなかった部分について書くので、完全にネタバレしている。


この物語の犯人は誰なのか、つまり夫婦と子ども二人を殺害した人物は誰なのかといえば、妻の大学時代の友人(田中光子)で、動機は、自らと比べて段違いに幸せな生活をしている田向夫人を怨んでの犯行、ということになる。
こう書いてしまうと、シンプルで、「陳腐」にすら思えてくる。
日々のニュースに触れる中で、こういった格差を怨んでの犯行というのは、ある程度の数があるように思う。例えば、年末に竹下通りで車を暴走させ8人に重軽傷を負わせた犯人についても、竹下通りで幸せに過ごしている人たちに対する「リア充爆発しろ」的感性が爆発してしまったのだろう、と推測してしまう。
しかし、もはやそこには「人間」は存在しない。視聴者が事件について「納得」するために、犯罪と、犯行の動機が、方程式的に結ばれているだけだ。


『愚行録』では、その「犯人」「犯行の動機」について「人間」を中心に描く。そして、人間を丹念に描くと、かえって論理的ではなくなる。

ふふふ、それなのにどうして殺したのか、って?ただ殺すだけじゃなく、なんで家族まで皆殺しにしたのかって?うん、なんかねぇ、切れちゃったのよ。あたしの中で張り詰めていたものが、ぷつんと切れちゃったの。だってあたし、もっと幸せな人生を歩みたかったんだよ。そのためにいつも一所懸命努力して、後悔しないようにその都度ベストを尽くして、それなのに何もかもうまくいかなくてさ、ずっと悲しかったんだ。あたしは悪くないでしょ。p289


こういった全く論理的でないモノローグが説得力を持ってくるのは、ここに至るまで、この女性(田中光子)の語りをずっと聴いてきたからだ。彼女が、どれほど辛い家庭で、でも健気に育ってきたのか、を知っているからだ。
しかし、それだけではない。
少なくとも本の前半では、この女性が誰なのかは分からないし、犯人が男性か女性かも分からない。自分は、最初、この不幸な生い立ちの女性(および、その兄)が、夫婦の2人の子どもなのかと思いながら読み、次に、夏原さん(田向妻)自身なのかと思いながら読んだ。
このように、「犯人=惨めな境遇」というレッテルを貼らずに読み進めることで、田向夫妻のようなエリート家族が、恵まれない環境に生まれ育っているかもしれない、という事実とは異なる部分まで想像を巡らせた。
これは、正体を伏せたままで話を続けることで、先入観抜きに、よりフラットに状況を捉えさせることができる、そうした効果を狙った手法であるように思う。例えば、ジョン・グリシャム原作の法廷映画『評決のとき』で、マシュー・マコノヒ―の演説シーン、また、スガシカオの名曲「はじめての気持ち」でも、同様の手法が取られている。
⇒参考:スガシカオの方程式(2)〜関係性〜(2006年10月の日記)


それにしても、田中光子の独白を読んでいると、まさに暗澹たる気持ちになる。
特に、何度も繰り返される「男を捉まえる」という言葉が耳に残る。ここから、彼女にとって男性は「捉まえる」対象で、お金があるかないかだけにしか興味がないことがビシビシと伝わってきて辛い。彼女がこれまで父親や、母親が連れてきた男性からされてきた仕打ちを考えれば当然の感覚なのかもしれないが。
だからこそ、「人はみな愚か」と書く、この小説の最後の言葉が重さを持って心に響いてくる。自分にとっては、久しぶりに胸を衝く重い小説だった。

人生って、どうしてこんなにうまくいかないんだろうね。人間はバカだから、男も女もみんな馬鹿だから、愚かなことばっかりして生きていくものなのかな。あたしも愚かだったってこと?精一杯生きてきたけど、それも全部愚かなことなのかな。ねえお兄ちゃん、どう思う?答えてよ。ねえ、お兄ちゃん。

補足

この構成なしには、この小説はあり得ない。だからこそ、映像化は難しいのでは?と思っていたが、映画版は、あらすじを読むと、小説版とその構成が大きく異なるようだ。

エリートサラリーマンの夫、美人で完璧な妻、そして可愛い一人娘の田向(たこう)一家。
絵に描いたように幸せな家族を襲った一家惨殺事件は迷宮入りしたまま一年が過ぎた。
週刊誌の記者である田中は、改めて事件の真相に迫ろうと取材を開始する。
殺害された夫・田向浩樹の会社同僚の渡辺正人。 妻・友希恵の大学同期であった宮村淳子。 その淳子の恋人であった尾形孝之。
そして、大学時代の浩樹と付き合っていた稲村恵美。
ところが、関係者たちの証言から浮かび上がってきたのは、理想的と思われた夫婦の見た目からはかけ離れた実像、
そして、証言者たち自らの思いもよらない姿であった。
その一方で、田中も問題を抱えている。妹の光子が育児放棄の疑いで逮捕されていたのだ――

愚行録 [DVD]

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確かに、光子が育児放棄で逮捕されているのは、小説版でも冒頭1頁目に新聞記事の形で明らかになっているので、モノローグではなく、最初から本人が登場するという改変はあり得るだろう(というか映画にする以上、それ以外の方法は難しい)。しかし、まさか(小説では登場しない)「お兄ちゃん」が主人公的扱いで、週刊誌の記者として事件を追う、とは思わなかった。だが、これはかなり巧い改変のように思う。映画も是非見てみたい。