『邦キチ』に誘われるようにして観た『クリーピー 偽りの隣人』

クリーピー』は、タマフルのムービーウォッチメンで取り上げられてからずっと見たい映画ではありましたが、Amazonプライムビデオの見放題対象に入ったことを、これ幸いと早速鑑賞することに。
ただ、他の映画よりもこの映画を優先させることになったきっかけは、何と言ってもこの本、服部昇大『邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん』。


基本的に邦画、しかも「微妙な」邦画を女子高生が推しまくるこの漫画で一番観たいと思ったのが、この『クリーピー 偽りの隣人』。香川照之の怪演ばかりを語る内容でしたが、実際の映画の予告編も、まさに香川照之推しに徹していました(笑)。


さて、実際に見てみると冒頭の事件(後述)から1年後、引越し後に、お隣さんの挨拶で訪れる中で、最初から異彩を放つ隣人の西野(香川照之)。

ここは、香川照之が変過ぎて、やっぱりちょっと笑ってしまう部分で、西野が、竹内結子演じる高倉康子(西島秀俊の妻)に、
「康子さん…って呼んでいいですか?」
「ご主人と、僕と、どっちが魅力的ですか?」
「直感でいいんです。 言ってください。 正直に。魅力的なのは、どっちですか?」
と畳みかけるシーンは、こんなに仲良さそうな夫婦に、こんなに空気が読めない声掛けをする西野に、「馬鹿じゃないの?」「この人、大丈夫なのか」と心配になるほどでした。


この場面と、ほぼ同時に出てくるこの台詞は、予告編どころかポスターでも取り上げられていますが、主人公役の西島秀俊(高倉)が「奇妙な隣人」の娘から突然、

あの人、お父さんじゃありません!
全然知らない人です!

と言われるあたりが、この映画の真骨頂で転換点となります。


ちょうど2時間映画の半分を過ぎたこれ以降は、論理的にあり得ないし、空間的にもあり得ない、噓みたいな場面ばかりが展開する映画になります。何より、あんな住宅街の、しかも元は「他人の家」に、重い鉄の扉を引かなければ開かない地下室のような部屋があり、部屋の壁が(防音の意図か)芸術的なデザインで、それだけであり得ないのですが、香川照之に引き込まれている身としては、映画前半と違って、西野や西野邸を半笑いで見るような態度を取ることができません。
北九州監禁殺人事件の話は、宇多丸評でも出てきましたが、そういう異常な事件(家族をマインドコントロールして殺し合わせる)が実際に起きていることを考えると、一番不可解な西野澪(あの人、お父さんじゃありません!と言った少女)の言動なども、もしかしたらあるかも…と息を呑むように展開を観続けました。


そして高倉(西島秀俊)が西野と向き合い、説得を試みるクライマックスです。
ここは、冒頭で、拘留中に脱走を図った連続殺人犯を説得しようとして刺され、人質も犠牲になった冒頭のエピソードと対になるシーンで、通常の物語なら成長した主人公が乗り越えてみせる場面のはずですが、今回も西島秀俊は「してやられる」ことになります。しかも、夫婦の絆も破られて。
「そっちか!」と、ハッピーエンドを願っていた自分にとって第一の驚きでした。


そして西野は、次の家に向かいます。
高倉は放心状態で、物語を駆動する力を失っているように見えます。
例によって、車を途中降りて休憩しているときに、ふと、西野がマックス(犬)殺害を、高倉に任せようとしたとします。
そこで西野から受け取った拳銃で、高倉はマックスではなく西野を撃ちます。
これはかなり衝撃でした。
このまま西野が高笑いしてエンディングでも十分に落ちるのに、また元に戻すのか、と。
それが自分にとって第二の驚きでした。
高倉は、冒頭とクライマックス(西野邸)で2度失敗して、もう手持ちのカードはないはずなのに、ここで西野に逆転するのか、と。完全に屈服しているように見えた高倉がどうしてここで気力を取り戻すのかが分からなかったのです。
むしろ、撃たれた西野を見下ろして「ざまぁみろ!馬鹿だこいつ!」と笑う澪を上から高倉がさらに撃つ、というシーンを想像して、「それは怖い」と恐怖したのですが、それは起こらず。最後の最後になって、西野の行動原理の方が理解出来て、むしろよくわからないのは高倉だと思ってしまったのです。


また、夫婦が抱き合うシーンで終わるのも謎でした。西野邸のシーンで、高倉が西野を倒していれば、この映画は、夫婦の絆の修復をテーマに持つことができました。でも、西野邸で夫婦の関係は完全に壊れており、最後に抱き合うシーンを持ってきても誰も共感できないからです。
とはいえ、抱擁シーンでの康子(竹内結子)の絶叫が、そこら辺の訳の分からなさを代弁しているのかな、という感じはしました。
何も解決していない。
康子も安心していない。
高倉も安心していない。
観客も、むしろ映画を観る前よりも、世界に対して不安感が増している。
それが、あの絶叫に表れているのかもしれない。そう思うしかないのでした。

俳優

この映画はどこまで行っても香川照之の映画なのですが、他も良かったです。
西島秀俊は、下手にも聞こえる朴訥な演技で、とても合っていました。冒頭のシーンで、殺人犯を「サイコパスのサンプル」として貴重なので、拘留を一日伸ばしてインタビューさせてほしいと願うシーンや、「日野事件」の生き残りである川口春奈へのしつこい尋問、そしてラストシーンまで含めて、観客に信頼させてくれない難しい役に合った演技だと思いました。
澪役の藤野涼子も「あの人、お父さんじゃありません!」の場面ともう一つ以外は、心を見せず、淡々と西野に付き合う徹底ぶりで、こちらも怖いです。
竹内結子は、映画の中では一番「普通人」ぽいと思っていましたが、それでも西野に騙されてしまう。この事実は、どんな人も、つつかれたら相手に服従してしまうくらいの「心の闇」を抱えていて、ひとたびそこを攻撃されると、あっという間に墜ちて行ってしまうという怖さを感じました。
メインキャラクターの中では、もう一人の常識人・東出昌大も同様です。


香川照之は、どのシーンも怖いですが、やっぱりこれも予告編に入っている、西野邸での高倉との対峙シーンの「別に何も…」ですね。ポロシャツ・短パンで拳銃持ちながらこの台詞を言うのは香川照之しかできません。

ロケ地

宇多丸評でも触れられていましたが、ロケ地は気になりました。「日野事件」の現場は、背景に京王線が走っているのが見えるし、高倉・西野の住む場所の稲城京王線沿いです。京王線ユーザーとしては気にならないわけがありません。
検索するとどちらも稲城付近とのこと。ランニングコースを少し外れれば走ってでも行ける場所なので、見に行ってみたい気もしますが、怖い気持ちになったら嫌なので、逆にあまり近くに行かないようにします(笑)*1

まとめ

著名な黒沢清監督の作品で、宇多丸評でも絶賛されていたので、期待値は高かったし、実際に見どころは沢山あったのですが、ラストの「分からなさ」が特に強いため、スッキリしない気持ちになりました。これはちょっと原作を読んでみたい作品ですね。

クリーピー (光文社文庫)

クリーピー (光文社文庫)

*1:勿論、ご近所に住んでいる方からすればいい迷惑でしょうし。

残り半分て短すぎるね〜『SUNNY 強い気持ち・強い愛』

90年代、青春の真っ只中にあった女子高生グループ「サニー」。楽しかったあの頃から、20年以上という歳月を経て、メンバーの6人はそれぞれが問題を抱える大人の女性になっていた。「サニー」の元メンバーで専業主婦の奈美は、かつての親友・芹香と久しぶりに再会する。しかし、芹香の体はすでに末期がんに冒されていた。「死ぬ前にもう一度だけみんなに会いたい」という芹香の願いを実現するため、彼女たちの時間がふたたび動き出す。
映画公式ページ


9/1の映画の日に観てきました。


阪神淡路大震災をききっかけに主人公(広瀬すず)が淡路島から東京に越してくるところから始まる高校生時代は、1995〜1996年を舞台にしています。
当時の自分は21〜22歳の大学生時代ですが、1999年のノストラダムスの大予言を前にしたあの時代を知っている人、特に、その頃の音楽に親しんだ人には堪らない作品でした。
涙もろい自分は、JUDY AND MARY「そばかす」が流れてきた時点で、既に泣きそうになっていたのですが、一番ストーリー的に沁みたのは、やはり、女子高生だった彼女たちが、将来の自分に向けてビデオメッセージを送るシーン。将来の自分はどんな生活をしているのか、そういった「未来予想図」が、ほぼ完全に当たっている人もいれば、完全に外れている人もいます。スガシカオ夜空ノムコウ」でいう「あの頃の未来に僕らは立っているのかな」をストレートに見せられる場面で、「将来も、みんな今と同じように仲良く」という奈美の願いに、(女子高生時代の)芹香と奈々も涙ぐんでいましたが、ここは誰もが涙するところだと思います。
いや、もう少し限定すると、彼女たちと同様に振り返ることのできる青春時代を1990年代に持っている人はみな泣かずにはいられないと思います。


というように、この映画の良いところは、観客がそれぞれの青春時代(中学でも高校でも大学でも)を振り返るように仕組まれているところです。
物語が、あえて大げさに、漫画的に描かれ、馬鹿っぽい演出で飾られているが故に、観客は感情移入し過ぎることなく、物語から距離を置いて笑えます。
登場人物にログインして楽しむ作品ではなく、いつでも引いてみられる「隙間」が用意されていることで、観客は、ついつい自身の青春時代を思い出してしまうのです。そして、そういう場面は、映画や小説以外でも経験がありました。
物語の最後の流れもあって、自分は、先日参加したお別れ会(お葬式の二次会)を思い出してしまいました。直接的には交流の少ない方ではあったのですが、自分と同世代で、子供二人の年齢もほぼ同じということで、我が身と重ねて「死」を考えてしまいました。立食パーティ形式のその会では、故人の笑顔の写真がスクリーンに沢山映し出されるのですが、まさに、この映画のエンドロールで写真が流れるのを見て、そのときのことを思い出して泣いてしまいました。


映画の登場人物は、キラキラしていた女子高生時代を20年以上前の思い出に持ちながら、それぞれに苦労のあるリアルな日常を過ごしています。主人公の奈美の今の暮らしも、かつての望み通りの部分もあれば、諦めてしまった部分もあるようです。そうした鬱屈した今が描かれるからこそ、ラストのダンスが感動的に伝わってくるし、観客も、「あの頃」を思い出して、前向きに頑張ってみようとポジティブな気持ちになれるのです。KIRINJI『時間がない』で歌われるように、残りの人生が短すぎると焦りながら。

俳優陣

当然のことではありますが、主演の篠原涼子広瀬すずが上手いです。広瀬すずの田舎者〜馬鹿女子高生の演技がかなりやり過ぎているので、その分を大人になった篠原涼子がカバーして、主役として上手くまとまっていたと感じました。
その他、女子高生時代と大人になってからのW配役はどの人も合っていて、特に小池栄子渡辺直美が女子高生時代と変わらない口調でディスり合うのは大笑いしました。そして、心役・ともさかりえの、あの何とも言えない「落ちぶれ感」は凄いですね。バーで暴力を振るわれるシーンは真に迫っていて、この映画の中では唯一緊張してしまった場面でした。
SUNNYのリーダーである芹香役・山本舞花と板谷由夏は、どちらもハマり役で、この2人が核となったから6人がまとまった感じがしました。2人とも顔に説得力があります。
大人時代も本人が務めた奈々役の池田エライザは、可愛いしカッコいいし、この映画の中では「馬鹿」にならない、そのうえ「老けない」、とにかくズルい役回りですね。
そしてSUNNY以外では、興信所の探偵役のリリー・フランキー。どうでもいいけど、リリー・フランキーでコギャルと言えば、ガングロたまごちゃん(「おでんくん」の同級生)を思い出しました。

音楽

使われている音楽は、舞台となっている1996年に限定しているわけではなく、とはいえ1990年代中盤の曲が使われています。(下記以外にもありますが)

ちょうど自分が20歳前後に聴いていた曲ばかりで本当に懐かしいです。
この頃にカラオケで自分がよく歌っていたのはCHAGE&ASKA岡村靖幸、そしてミスチルスピッツ。1994年頃にデートでカラオケに行ったとき、自分が歌ったCHAGEASKA「HEART]に対して、女の子が歌ったのはtrfの「BOY MEETS GIRL」(どちらも1994年の発売曲)だったのをよく覚えています。
そんな自分の記憶を振り返り、当時のランキングを確認すると、同じ小室哲哉でも、やや若い女性が好んだ安室奈美恵trfに対して、少し上の世代は男女問わずglobeを聴いていたのかもしれません。さらに、それとは別路線としてH Jungleを売り出すなど、小室サウンドは、ある程度、カテゴリーを分けてプロデュースされていたのだなと思い返しました。
ということで、選曲には特に不満はありませんが、小沢健二「強い気持ち・強い愛」が筒美京平ソングであることを考えると、ここにNOKKO最大のヒットソングである「人魚」(1994年3月)が入って来ないのがむしろ不思議な気がします。BPMがゆっくりで入れにくいのかな。

想い出はいつもキレイだけど
それだけじゃおなかがすくわ
本当はせつない夜なのに
どうしてかしら?
あの人の笑顔も思い出せないの
JUDY AND MARY「そばかす」

ダメな部分

最初に「隙間」があるからこそ、観客はそれぞれの過去を振り返ることが出来る、ということを書きましたが、逆に言うと、ビジュアルや展開が現実とはかけ離れていて、物語に入り込みづらいところが多々がありました。
登場人物の容姿について言えば、藤井渉(三浦春馬)の髪型は、わざとなのか、あからさまにカツラっぽい感じでキムタク風ロン毛です。そのしぐさ全てに、奈美の思い出フィルタが入っているのか、不自然なほどのイケメン度合いで、先日のコミケで好評を博していたという「90年代オタク」のコスプレを思い出しました。
(参考:タイムスリップしてきたオタク現る!?「小生、98年のコミケに来たつもりでござるのに」 #C94コスプレ - Togetter


その他のキャラクターの設定では、特にブリ谷の扱いが気になりました。「クスリに手を出したので仲間から外れる」という設定が漫画過ぎるのです。勿論そういう時代だったのかもしれませんが、あの時代の明るい面に光を当てた映画全体の中でもやや浮いているし、ブリ谷がラリッて奈々が顔に傷を負うシーンも、唐突過ぎると感じました。
奈美(広瀬すず)と奈々(池田エライザ)とがおでん屋で日本酒飲んで酔っ払ったりするのも、自分は漫画的表現として楽しめましたが、折角二人が友情をはぐくむシーンなので、もう少しリアルに扱ってほしかったです。
そして、やっぱり視点が一旦外に出てしまうのが、2度の「復讐」シーン。
一度目は、女子高生時代の、プールでのブリ谷襲撃シーン。このシーンは微笑ましい話として観ればいいと思うのですが、その後の、ブリ谷VS奈美や、ブリ谷VS奈々のシーンのハードさを考えると、このシーンは疑問です。当然、ブリ谷たちとは和解するものとばかり思っていました。
二度目は、裕子(小池栄子)の夫を襲撃するシーン。彼女たちが女子高生の格好をして襲うというのは漫画では全然ありだし、映画の中でも不自然ではありませんでしたが、その後に寄りを戻していればこそ、笑えるシーンとなる気がしました。(離婚で慰謝料をブン取るのも、それはそれでハードな現実だと思います。)
そして、それぞれの悩みに応えてしまう芹香の遺書。これもちょっとやり過ぎな気がします。第一、複数の会社を回して女子高生時代以上のカリスマぶりを発揮している芹香の友人が、彼女たちしかいない、ということの不自然さが浮き立ってしまうように思うのです。
勿論、心(ともさかりえ)や梅(渡辺直美)へのサポートが、ちゃんとしたサポートになっているのか(単なる甘やかしではないのか)という部分もあります。心(しん)の生活があまりにハードだからこそ、その部分の解決は安易にはしてほしくなかったと、ともさかりえの登場シーンから思っていました。
この辺は、原作である韓国映画『サニー 永遠の仲間たち』でも同じなのかもしれませんが、どのように処理してあるのか気になりました。


と、色々と書きましたが、映画の中で『強い気持ち・強い愛』に触れ、久しぶりに聴き返して、歌詞の良さを再発見しました。
90年代の音楽については、映画で扱われていない音楽の中にこそ自分の好きなものがたくさんあるので、改めて自分なりに振り返ってみたいです。

長い階段をのぼり 生きる日々が続く
大きく深い川 君と僕は渡る
涙がこぼれては ずっと頬を伝う
冷たく強い風 君と僕は笑う
今のこの気持ちほんとだよね

また、大根仁監督の作品や、オリジナルの映画は早く観てみたいと思います。


バクマン。

バクマン。

モテキ

モテキ

まさに「今でしょ!」〜梅津有希子『高校野球を100倍楽しむ ブラバン甲子園大研究』&『ブラバン甲子園V』

今回は、高校野球開幕の前日8/4に行われたビブリオバトルの原稿*1をそのままアップします。
本当は色々と追加したい部分もありますが、キリがないので、最小限で…。


発表部分(5分で説明する部分〜無理かな…)

今回、新企画の「【&】ビブリオバトル*2というのを聞いたときにすぐに思いついた本があったので、ずっとそれで行くつもりだったのですが、先日、ビブリオ仲間の方から、「【&】に出るんですか?やっぱり音楽と合わせるんでしょ」と言われて、ああそうか、と。自分には音楽があったじゃないか!と思って、一気に本を変えることにしました。
実は、元々用意していたのは、サッカー本で、ワールドカップ観戦と合わせて紹介しようと思っていたのですが、よく考えたら、もうずいぶん昔にワールドカップは終わっているし、自分は熱心なスポーツファンではないので、変えて良かったと思います。
今回、曲をかけながら本紹介という試してみたかったスタイルに挑戦するいい機会ということで、まずは曲の方をかけます。

(「栄冠は君に輝く」をかける)


さあ、明日から開幕する第100回全国高等学校野球選手権記念大会 いわゆる甲子園に向けて今日紹介する本は先月発売されたばかりのこちらです。


そして、合わせて紹介するCDはこちらです。

ブラバン!甲子園 V

ブラバン!甲子園 V


まず、この本は梅津さんの思いの詰まった序文を読んで欲しいです。
ここには、作者の梅津さんがブラバン応援にハマった理由が説明されています。
梅津さんはスポーツ全般に興味がなかったのですが、中高と吹奏楽部に所属していた経験を生かして、吹奏楽部女子と高校野球選手との恋愛を描いた少女漫画『青空エール』の監修を務めます。そこから取材で甲子園に行ってみて、意外にも演奏が上手いことやその熱心さに感動し、野球応援にドはまりしたというわけです。


本の中には応援曲の蘊蓄が色々と紹介されているのですが、基本的に、学校名とセットで紹介されているのが大きなポイントです。
(「ファンファーレ(天理/速尺版)」をかける)
たとえばこの曲。これは天理高校オリジナル楽曲で「ファンファーレ」と呼ばれているものです。これだけでなく強豪校は、オリジナル曲を持っているところが多く、オリジナルでなくても、カッコいい曲は他校が真似して広まる、という流れがあるようです。
(「アフリカン・シンフォニー」をかける)
この定番曲アフリカンシンフォニーも、元はディスコの曲ですが、智辯和歌山が広めた曲なので「チベン」と呼ばれることも多いとのこと。また地方によって呼び名が異なるということも書かれています。


というように蘊蓄を言いはじめると止まらないので、これくらいにしておきますが、この本は魅力はそこではなりません。
自分の考える、この本の一番の魅力は、読むと吹奏楽部に興味が湧いてくるということです。
というのも、作者は、吹奏楽部の甲子園である普門館に何度も出たことのあるような強豪校出身の人で、もともと野球にあまり興味がない。そこが大きな特徴で、高校野球が大好きな人が書いたらこんな風には書けません。


たとえば、試合の流れを変えるような応援曲があります。有名なのが智辯和歌山の「ジョックロック」という曲で「魔曲」と呼ばれています。
これまで智辯和歌山の数々の逆転劇のきっかけを与えているということで、高校野球ファンが紹介しようとすれば、たとえば2006年帝京戦の奇跡の逆転のくだりを詳しく説明するはずなのですが、この本ではそこにはほとんど触れずにサラッと流します。
その分、秋のコンクール予選と野球応援が重なった場合の吹奏楽部の対応とか、野球応援で使われる楽器の説明とか、前日の移動での楽器の運搬や、雨に備えた楽器の扱い、についてページが割かれ、インタビューは吹奏楽部顧問に取るなど徹底しています。
つまり、高校野球というスポーツの添え物としての野球応援ではなくて、吹奏楽部が主人公の高校野球が描かれる。ここが一番面白い部分です。


もう一つ付け加えたいポイントは、情報の新しさです。
(「SHOW TIME」をかける)
まず併せて紹介するCD『ブラバン甲子園5』は梅津さんが監修を務めていて2017年発売で最近の曲を押さえています。
そして何より、Amazonプライム会員は無料で聴けるアルバムであることもオススメする点です。


そしてこの本。
もともと2016年発売の本が文庫化されるにあたって大幅に加筆されていて、2018年春大会の話まで出てくるので、まさに最新の情報です。
本の中で紹介されている最新の流行応援曲も、このアルバムで聴けます。
今かかっているのは、湘南乃風の『SHOW TIME』で最近の曲ですが、自分が気になったのはアゲアゲホイホイです。元は古くからあるサンバ・デ・ジャネイロという曲なんですが、バージョン違いというか掛け声が違う。
アゲアゲホイホイに流されずに、以前からの応援を続ける智辯和歌山のサンバ・デ・ジャネイロと合わせて楽しみたい曲です。
ということで、明日から始まる甲子園が楽しみで仕方なくなるこの本。出来るだけ早くお読みください。


補足(質問で来てほしいネタ)

「〜の文化史」等の歴史を読み解くタイプの本にほとんど興味のない自分も、野球応援黎明期の早慶の話にはグッと来ました。まず早稲田が1959年作曲の天理ファンファーレをイメージして作った今やド定番曲の「コンバットマーチ」を作り、1965年に発表し優勝。それに対抗して慶応が、翌年に、こちらもド定番曲の「ダッシュKEIO」を作り、勝ち始める。
この流れが、ビートルズの『ラバー・ソウル』に影響を受けて、ビーチ・ボーイズが『ペットサウンズ』を作った流れと重なります。と思って調べると『ラバー・ソウル』が1965年、『ペットサウンズ』が1966年ということで、ちょっと驚きました。
こういう野球応援の歴史の流れとして「アゲアゲホイホイ」や、上では取り上げなかった「ダイナミック琉球」を今自分は見ているのだと思うと、さらに高校野球を見るのが楽しみになります。

関連リンク

100回記念大会の注目応援(だけじゃないですが)について、梅津さんが朝日新聞スポーツ部・山下弘展記者と対談されています。大会の見どころが分かる素晴らしい対談です!

*1:ビブリオバトルでは、原稿読み上げタイプの発表は、基本的に推奨されませんがが、話す内容を整理するために原稿を作るタイプの人とそうでないタイプの人がいます。自分は、基本的にはラフ原稿を用意して記憶して臨むタイプです。

*2:ビブリオエイトさん考案の本と「何か」を組み合わせて紹介するビブリオバトル企画

ORIGINAL LOVE「Wake Up Challenge Tour」 (7/7(土)、人見記念講堂)

久しぶりのライヴ感想です!
良いライヴでした!
以下感想。

驚きの1曲目と、まさかの大プッシュのアルバム

目覚まし時計の音と、「Wake up!」というスクリーン上の文字が出てメンバーが登場し、まず一曲目は驚きの「It’s a Wonderful World」。
ライブの一曲目に全編ファルセットの曲をぶつけるのは、多分(ツアータイトル通り)チャレンジのはずなのに、発声はバッチリ。過去のライブで聞いたときに、「やはりこの曲に、CDレベルの完成度を求めてはダメなのか」と思ったのが嘘のようです。大感動の一曲目でした。
この曲が一曲目に来ている理由は明確で、このあとのラスト前までの構成を見ても分かる通り、今回のツアーは、『白熱』以降のWONDRFUL WORLD RECORDSのアルバムからの曲にこだわった内容になっています。
somedaysomebodyさんという方が、収録アルバムもわかる素晴らしいまとめをされているので、そちらから引用。

1.It’s a Wonderful World ?風の歌を聴け
2.線と線(16)ELECTRIC SEXY
3.クレイジアバウチュ (17)ラヴァーマン
4.エナジーサプライ (16)ELECTRIC SEXY
5.AIジョーのブルース (新曲)
6.ゼロセット (新曲)
7.ハッピーバースデイソング (シングル)
8.フランケンシュタイン (17)ラヴァーマン
9.あたらしいふつう (15)白熱
10.ふたりのギター(15)白熱
11.海が見える丘(15)白熱
12.セーリングボート (16)ELECTRIC SEXY
13.ソングフォーアクロバット (新曲)
14.一撃アタック(16)ELECTRIC SEXY
15.ラヴァーマン (17)ラヴァーマン
16.朝日のあたる道 ?風の歌を聴け
17.接吻
18.Two Vibrations ?風の歌を聴け
19.The Rover〜It’s a Wonderful World ?風の歌を聴け
【アンコール1】
20.月の裏で会いましょう ?結晶
21.LET’S GO!?EYES
【アンコール2】
22.希望のバネ (17)ラヴァーマン
https://lineblog.me/somedaysomebody/archives/1219680.html

改めて見ると、2〜15曲までの14曲が、『白熱』以降のアルバムで、個人的にはそのバランスにも驚きました。
つまり『白熱』3曲、『ラヴァーマン』3曲(+アンコール1曲)に対して、新曲4曲(ハッピーバースデーソングを含む)、そして『ELECTRIC SEXY』4曲
あくまで個人的な見解ですが、『白熱』『ラヴァーマン』という2枚の傑作アルバムの間に挟まれた『ELECTRIC SEXY』は、天邪鬼的な、いたずらっ子的な感性が爆発してしまったアルバムで、田島貴男にとって、黒歴史的な扱いなのかと思っていました。
実際、ちょうど同じブログに、昨年の人見記念講堂でのセットリストがあるので、確認してみると、当然のように 『ELECTRIC SEXY』 からは1曲もありません。自分自身も、ここ数年では「エブリデイ エブリデイ」以外では、どこかで「太陽を背に」を聞いた程度でしょうか。しかし、この2曲はアルバムの「癖」があまり出ていない2曲と言えます。
それが、今回一気に4曲。しかもアルバムの強い癖が出た「線と線」「エナジーサプライ」「一撃アタック」が選ばれており、かなり驚きました。(「セーリングボート」は、3曲と比べると、やや「普通」寄り)
中でも、メンバーが頭にロビンフッドの羽根をつけて演奏した「一撃アタック」。*1馬鹿っぽいタイトルながら、でも若さゆえの馬鹿っぽさ、という甘酸っぱい感じのする名曲だと改めて感じました。歌詞の内容的にも「ラヴァーマン」への繋ぎとして自然だったのではないでしょうか。

新曲と「It's a Wonderful World」再び

今回のツアーで初披露になった新曲3曲は、一度しか聴いていないので、何とも言えませんが、いずれも、「ハッピーバースデーソング」に比べるとチャレンジングな曲で聴いていて面白かったです。
「AIジョー」は、『エレクトリックセクシー』の2曲とピコピコの「クレイジアバウチュ」の後、という流れとタイトルからも分かるように、やや電子音より。変拍子部分で振り付けのある、少し変わった曲のようです。好みです。
次に「ゼロセット」。3曲の中では最もオーソドックスな曲だと感じました。シングルとして先行配信があるならこの曲でしょうか。ただ、全般的に、歌詞はあまり聞き取れなかったので、ゼロセットが何なのかは分かりません。卓球?テニス?
田島本人が「綱渡りの曲」と紹介していた「ソングフォーアクロバット」。特徴的なギターフレーズが印象的な曲でした。 その要因が何なのか上手く説明できませんが 、この曲が最も、これまでのオリジナル・ラブには無かった曲と言える気がします。
「ハッピーバースデーソング」も合わせた4曲は、互いに似ておらず、次のアルバムの方向性を推測することは難しいですが、全体の構想も含めてチャレンジを継続中ということなのでしょう。アルバムが楽しみになる新曲でした。
なお、アルバムの方向性とは無関係だと思いますが、「セーリングボート」の前のMCでは、最近は、歌詞を書こうとすると、すぐに「人生」について書いている自分に気づく、という話を自嘲気味にしていました。アルバム全部が「人生」だと辛いですが、1〜2曲は、みんな期待しているので恐れずに行ってほしいです!


最後に、16〜19曲目は、「いつもの」4曲ではありましたが、ラスト曲「The Rover」の終わりに、「It's a Wonderful World」を繋げてくる、という円環構造的なセットリスト。「To be free,not to be free?」という歌詞で終わらせる締めもカッコいいし、 「It’s a Wonderful World」 は今後もライブで何度も聞きたい一曲。

ツアーのコンセプトとオリジナル・ラブのこれから

ということで、「WONDRFUL WORLD RECORDS」祭りというコンセプトだった今回のツアー。田島貴男本人が言及していた通り、最新シングル「ハッピーバースデイソング」はVictorからの発売*2ということも考えると、年内に発売される予定のアルバムは、同じVictorからの発売と考えることが自然です。(本人は「お楽しみに」と言っていましたが)
それを考えると、ついに田島貴男がメジャーに帰って来る、その前夜祭的なツアーだったのではないでしょうか。*3
「希望のバネ」で言えば、

ひとりでいるときは
力を溜めるのさ
バネを縮め伸ばして
あちこち磨くのさ

という充電期間を過ぎ、

時が満ちたら
思い切りジャンプしよう

という状態なのでしょうか。
勿論、 WONDRFUL WORLD RECORDS の3枚のアルバムは、単なる準備期間・充電期間などではない、それぞれが力のこもったアルバムでしたが、「時が満ちた」今だからこそ、できる新しい活動に期待したいです。

(参考) WONDRFUL WORLD RECORDSのCD

★印は、SpotifyiTunesApple Musicで6月から配信開始になった5タイトル です。MCでも触れていましたが、この配信が、今回、これらのアルバムから多く演奏している理由の一つではあります。

  • WWCD-005:「RED CURTAIN ~Original Love early days~」(2011.3.2)
  • WWCD-006:★「白熱」(2011.7.27)
  • WWCD-006S:★「白熱(初回限定)」(2011.7.27)
  • WWCD-007:★「ひとりソウルショウ」(2012.06.27)
  • WWCD-009:★「Overblow Tour 2012 Live in Shibuya Club Quattro」(2012.11.21)
  • WWSP-001: 「ファッションアピール」(会場限定CD:2013)
  • WWCD-011: ★ 「エレクトリックセクシー」(2013.06.26)
  • WWSP-002: 「Lover Man」 (会場限定CD:2015)
  • WWCD-012: ★ 「ラヴァーマン」(2015.06.10)
  • WWCD-013:「ゴールデンタイム 」(2016.06.01)
  • WWCD-014:「ひとりソウルショウ2017  ―Selected from Shibuya Live−」(会場限定CD:2018.2)

WWCD-008、010が欠番になっているのが気になりますが、何故でしょうか。

参考(過去日記)

⇒まさに、 WONDRFUL WORLD RECORDS 最初期に、オリジナル・ラブの今後を予想した内容。ポニーキャニオンを出た頃、という今と正反対の状況の時期です。

最後に

入口でもらう広告類を探るまで、CASIOオシアナスの広告に田島貴男が出ていることは知らなかったのですが、この写真(下のリンク先のトップの写真)の服装の独創性に衝撃を受けました。記事タイトルの下の「田島貴男氏(ORIGINAL LOVE)」という表記も独特で、ここでインタビューに答えているのは、田島貴男ではなく、田島貴男氏(うじ)なのではないか、と思えたほどです。いえ、今誤変換して気が付きましたが、田島貴男氏(うじ)ではなく、田島貴王子(イヌイットの一部族の王子)なのではないか、と思えてきました。

*1:他会場ではおもちゃの弓矢を使ったパフォーマンスがあった、ということですが…人見でも後ろに置いてあったとの話ですが、披露されなかったのは残念でした…

*2:有識者の推測によれば、ペトロールズのトリビュート「WHERE, WHO, WHAT IS PETROLZ? 」、また長岡亮介との共作「SESSIONS」がVictorからの発売だったので、長岡亮介が繋げた縁だったのではないかとの説もあり

*3: なお、今回、わざわざMCで表記の話をしていたことを考えると、メジャー復帰時に表記を「オリジナル・ラヴ」に戻す というのもありかな、という気がしてきました。え?ありませんか。

あの名作漫画に喩えれば…米代恭『あげくの果てのカノン』最終5巻を目前にして

先日、『あげくの果てのカノン』3・4巻の感想を書くときに、かのんと境宗介が「一線を越えていない」事実があることで、読者を敵に回す「不倫」要素よりも、読者を味方につける「恋」要素が多めになっている…というようなことを書いた。
しかし、その後、果たしてそうだろうか、という気持ちも湧いてきている。実際に2人は一泊旅行に行ってきているわけで、他人から見れば、ほぼ「一線を越えた」のと同義だ。いわゆる、「夜中ずっと部屋でゲームをしていました」という言い逃れと同様、ほとんどの人が信じてくれないだろう。
物語の中では、2人は大バッシングに合っているが、さもありなん。でも、読者だけは二人を信じている、という構図だ。


…と、考えを巡らせていて、ふと気づいた。

  • 相手のいる男性と若い女性がふたりで一夜を過ごすが、一線は超えない…。

確かによくあるパターンなのかもしれないが、これは何処かで見たことがある…。

あ、ワンナイトクルーズ

ガラスの仮面』で、北島マヤと速水真澄の2人が船上で朝を迎えたワンナイトクルーズじゃないか!

そう考えると、いろいろなところが符合してくる。
速水真澄と結婚こそしていないものの婚約相手である紫織さんは、当然、境宗介にとって妻の初穂。
2人の関係に業を煮やして、自宅に火をつけてしまった紫織さんと、ゼリーを逃がして東京を大混乱に陥れた初穂。彼女たちの行動は、それぞれ結局、意中の人を引き寄せる・引き留める効果があったということも含めてシンクロ率が高く、もしかして『あげくの果てのカノン』は、『ガラスの仮面』を下敷きにしているのでは?と思えるほど。笑


そして桜小路君。
自分が『ガラスの仮面』で愛してやまない桜小路優。北島マヤにとっては、兄弟みたいな安心感を与える人物である彼のキャラクターは、『カノン』では誰に当たるのか、といえば…。
そう、こちらも『あげくの果てのカノン』の中で最も応援したくなるキャラクターであるヒロ。
自分の好みの傾向とはいえ、何故、自分がヒロに惹かれるのか、改めてよく分かった。


さて、そうすると、今後、物語はどう展開するのか?
ヒロがバイクで怪我をするのか?
4巻最後で、境宗介が、かのんに対してぞんざいな態度を取るのは、「心変わり」ではなく、初穂のためにわざとやっていることでは?
など、色々と想像が膨らむ。


ただ、問題は、いくら参考にしようと思っても、『ガラスの仮面』は、終わる、どころか、続きが出る気配が全くない…そして、『あげくの果てのカノン』は、次巻5巻で完結してしまうことである。
今回まとめていて改めて思ったが、やはりどう考えても、4巻から登場する松木平は余計だ。『ガラスの仮面』だと、聖さんなのか?(なのか?)
松木平がいることで、あと1巻でまとまる感じが全くしないのだが、それでも全5巻の傑作漫画として、多くの人に薦められるような、そんな終わり方を期待しています!

Q女子高と東電OLとマルチ1人称〜桐野夏生『グロテスク』

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)

名門女子高に渦巻く女子高生たちの悪意と欺瞞。「ここは嫌らしいほどの階級社会なのよ」。
「わたし」とユリコは日本人の母とスイス人の父の間に生まれた。母に似た凡庸な容姿の「わたし」に比べ、完璧な美少女の妹のユリコ。家族を嫌う「わたし」は受験しQ女子高に入り、そこで佐藤和恵たち級友と、一見平穏な日々を送っていた。ところが両親と共にスイスに行ったユリコが、母の自殺により「帰国子女」として学園に転校してくる。悪魔的な美貌を持つニンフォマニアのユリコ、競争心をむき出しにし、孤立する途中入学組の和恵。「わたし」は二人を激しく憎み、陥れようとする。
圧倒的な筆致で現代女性の生を描ききった、桐野文学の金字塔。


桐野夏生『柔らかな頬』を読んだ直後にこの本を読んだ。
『柔らかな頬』では、女性主人公の娘(幼児)が行方不明になるが、娘を失った喪失感が書き込まれる一方で、あまり作中には登場しない、行方不明の娘の妹が、愛情を向けられずに、不憫さを感じてしまった。
だからこそ、読み始めたときは、主人公の視点から妹と母親について語られる『グロテスク』では、『柔らかな頬』の「妹」の視点から家族関係が改めて語られているような気がした。


ところで、この小説は、上巻の裏表紙のあらすじ(上述)を見て、女子高生の物語だとばかり思いこんでいたが、実は、東電OL殺人事件を土台に構成された物語だということを後から知った。
読み終えての感想だが、実際の事件だからこそ、桐野夏生の「イタコ」文体がとても効果的だと思った。
これまで何作か読んでいた桐野夏生だが、あまり連続で読むことはなかった。
今回連続して読んでみると、この人の特徴が、テーマ選び以上に、その文体にあると感じた。つまり、複数の1人称視点(マルチ1人称)で物語が描かれるということ。
『柔らかな頬』も桐野夏生特有のマルチ1人称視点が有効に機能する物語だった。
あの物語は主人公カスミの視点だけでも成り立つ物語だった。最初に「おっ」と思ったのは、不倫相手である石山の視点が含まれること。しかし1人称だからといって、石山は共感すべき、もしくは同情すべき人間として描かれていない。下巻では、ダンディさがなくなりパンチパーマのヒモと化した石山から興味を失うし、読み手からしても、1人称で描かれていることで、その行動原理は理解できても、別に応援したくなるキャラクターではない。
つまり、 「1人称」 によって、読者はシンパシーを感じるのではなく、テーマパークのライドに乗るような形で、読者は複数の登場人物の中に乗り込むことになるのだ。
男に、女に、少女に、母に、様々なキャラクターの心情をイタコのように書き綴った「マルチ1人称」文体、それが桐野夏生の一番の特徴であるように思う。


今回は、『グロテスク』では、それが「手記」の形を取り、それぞれの中で登場人物同士が互いを蔑んでいることで、通常の「マルチ一人称」のケース以上に、主人公を含む全員に対して「信頼できない語り手」感が強くなる。
このこと、実際の『東電OL殺人事件』を扱っているということと、強くマッチしているように思う。
桐野夏生の事件に対するスタンスは、語り手の「わたし」の冒頭の言葉に現れている。

でも、どうしてなんですか。前にも伺いましたが、あの事件の何がそれだけあなた方の興味を惹くのでしょう、わたしにはわかりかねます。犯人とされる男が密入国者の中国人だからですか。チャンといいましたっけ。チャンが冤罪だという噂があるからですか。
和恵とユリコとあの男の、三者三様の心の闇があるとおっしゃるんですか。あるわけないじゃないですか。わたしは、和恵もユリコもあの仕事を愉しんでいたと確信しています。そして、あの男もね。いいえ、殺人を愉しんだという意味ではございません。だって、あの男が殺人犯かどうかなんて、わたしは知りませんもの。知りたくもありません。
p86

つまり、この小説自体が、事件の加害者・被害者の「心の闇」に迫るために書かれたわけではない。
一方で、事件と無関係な登場人物にも全く共感できない。語り手の「わたし」は明らかに性格に難ありだし、高校時代は学年トップの成績を修めていたもう一人の主要登場人物で、Q女子高出身者のミツルは、ある宗教団体に入信して幹部に登り詰め、その宗教団体がテロを起こして6年間服役していたという波乱の人生で、共感は難しい。
他人の心の奥底は分からない。誰が嘘をついているかも分からない。
しかし、人それぞれに、それぞれの行動原理で行動して、その中で時に犯罪が起きる。


ということで、この物語は、主要登場人物であるQ女子高出身の4人+チャン(5章の語り手)の5人それぞれの「理屈」を知る、そこに面白さを感じるという意味では、未知の動物の生態を知る「わくわく動物ランド」的な物語であるともいえるかもしれない。
しかし、それらが相当特殊であるにもかかわらず、それぞれの登場人物の行動原理の「種」の部分は誰もが持っていると「感じさせる」。
そここそが桐野夏生の「マルチ1人称」の描写がいかに真に迫っているか、実在感で溢れているか、を示す部分だと思う。
ラストで、主要登場人物の中では一番「真っ当」な生き方を辿っていた「わたし」は、ユリコや佐藤和恵と同じく「怪物」の道を選ぶことになる。この部分は、あらすじだけ聞けば、陳腐に思えてしまうが、ここまでの「わたし」の、「ユリコ」の、「チャン」の、そして「佐藤和恵」の1人称の文章を読み進めて来た読み手からすれば、かなり素直に受け止められる終わり方になっている。
文庫解説で斉藤美奈子は、『グロテスク』の魅力として、「容貌や頭脳において逆立ちしても勝てなかったユリコやミツルを凌駕するほどの変貌」を遂げた和恵の「逆転のドラマ」を挙げ、次の部分を引用している。

あたしは復讐してやる。会社の面子を潰し、母親の見栄を嘲笑し、妹の名誉を汚し、あたし自身を損ねてやるのだ。女として生まれてきた自分を。女としてうまく生きられないあたしを。あたしの頂点はQ女子高に入った時だけだった。あとは凋落の一途。あたしは自分が身を売っていることの芯にようやく行き当たった気がして声を出して笑った。
下巻p293

このラストも、佐藤和恵と同様に、社会に対してわだかまりを持ち続けて来た「わたし」による社会への復讐の形なのだろう。
『グロテスク』で、グロテスクな怪物に変貌した人物として描かれているのは、佐藤和恵であり「わたし」だが、そうさせたのは、社会の構造の歪つな部分だ。東電OL殺人事件が興味を惹くのは、もちろん、その関係者の特殊性があってのことだが、その背景になっている部分に、多くの人が関心を持っているから今も語られることの多い事件となっているのだろう。
その意味では、上巻が、それぞれの登場人物というよりはQ女子高の人間関係にスポットライトを当てていたのはとても巧いと思う。(そしてQ女子高のモデルとなった高校の実態が今もこのようなものなのか知りたくなる)


桐野夏生の小説は、代表作『OUT』や、タワーマンションを舞台にした近作『ハピネス』『ロンリネス』も含め、まだまだ読んでいないものが沢山あるので、どんどん読み進めていきたい。

真相と感想、不倫と不憫〜桐野夏生『柔らかな頬』

柔らかな頬〈上〉 (文春文庫)

柔らかな頬〈上〉 (文春文庫)

柔らかな頬〈下〉 (文春文庫)

柔らかな頬〈下〉 (文春文庫)

『柔らかな頬』は、桐野作品の凄みを、端的に示した、代表作である。幼児失踪という事件にたいして、行方の解明という明快なカタルシスを拒否して、そこから巻き起こる波紋の綾を克明に、容赦なく描いていく。結末にいたった読者は、たちつくすとともに、自らの胸の奥を、深く、深く、覗き込まずにはいられないだろう。

福田和也の巻末解説で書かれるように、この小説には明快なカタルシスがない。
上巻の出だしこそ、主人公の家出や不倫など登場人物同士の人間関係にも触れられ、何らかの「真相」解明の材料は揃っている。しかし、実際に5歳の娘がいなくなり、癌に侵された元刑事・内海が登場してから、物語の向かう方向がわからなくなる。
内海は、事件の真相を求めない。証拠や証言を捜査しない。関係者からひたすら「感想」を求めるのだ。
謎の失踪事件でぽっかりと空いた穴を、母親である主人公は勿論、関係者皆が「何らかの解釈」をして埋めようとする。それが「感想」なのだが、「ありえたかもしれない可能性」というより、それぞれが死ぬ間際に見る「走馬燈」に近い。
この小説の中では、下巻に入ってから、別荘のオーナーである和泉正義が有香を殺したパターン(p95〜)、 カスミの母親 が有香を誘拐したパターン(p188〜)、駐在所に勤める脇田が殺したパターン(p254〜)、そして、有香から見た事件(P278 〜)が語られる。
それらはどれも当事者自身の目から語られるため、真に迫り、まさに真実のように語られるが、実際の出来事と乖離があり、それぞれに嘘っぽさが散りばめられている。
幾つかのパターンの「感想」を見る中で、誰もが真相を求めているのではなく、「解釈」を探したがっていることを知る。それが最後まで続いて終わらないところに、この物語の救いのなさがある。


もう一つ繰り返し語られるキーワードは「捨てる」ということ。
主人公カスミは、高校生の時に故郷を捨てて東京に出てきたが、石山との不倫は、そのときと同様に「脱出」、つまり慣れ親しんだ世界を「捨てること」を意味していた。特に「子を捨てること」が大きな意味を持つ。

すでに破滅は見えていた。破滅から二人だけの新しい世界を作ることができるのだろうか。しかし、ほんの刹那でも、この湿った暗い部屋は確かに二人だけの新しい世界ではある。石山がカスミの中に入ってきた時、カスミは高い声を上げ、石山とこのまま生きていけるなら子供を捨ててもいいとまで思ったのだった。(上p103〜)

有香の失踪する前日の深夜の出来事であり、カスミは、ここで「子供を捨ててもいい」と思ったことを失踪と結びつけて考え、何度も繰り返して振り返ることになる。
一番辛い想像は、有香が、まさにこの逢瀬をドアの向こう側で知っていたというもので、小説のラストに描かれる。

お母さんと石山のおじちゃんがいる。
瞬時にして、有香は悟った。二人は今、絶対に見てはいけないことをしている。それもなぜかわかった。母親が今そこで思っていることがドアを隔てて有香に伝わってきた。
お母さんは今こう思っているのだ。石山のおじちゃんのために自分たち子供を捨ててもいい、と。(p284)

そして、さらに、カスミは「子捨て」を繰り返す。失踪から4年が過ぎて訪れた北海道で、もう東京に戻らず、有香を探して生きていけばいいのではないか、と思い立つのだ。
有香の妹である梨紗、彼女の立場を考えると不憫としかいいようがない。
姉妹でありながら、親からの愛情に明らかに差がある、だけでなく、母親がより愛情を注ぐ相手が、今はいなくなってしまった人であるということはとても辛い。

浅沼に「因果は巡る」と言われたことを思い出す。両親は浜の食堂でカツ丼やらラーメンやらを作りながら、家出した一人娘を今の自分のように探し回ったのだろうか。親を捨て、自分の裏切りがもとで子を見失い、更にもう一人の子供と夫を捨てようとする身勝手極まりない女。それが本来の姿だった。自分が自分であろうとすることは、このように周囲の人間を悲しませ続ける。(上p273)


あげくの果てのカノン』における「不倫」は「恋愛」とニアリーイコールだったが、『柔らかな頬』における「不倫」は、「脱出」であり「逃避」である。今いる場所から抜け出すこと、今いる家族を捨てることが「不倫」なのだ。
かのんも確かに両親と弟を悲しませるし、境先輩も初穂を悲しませるが、そこに子供がいるかどうかは大きい。
しかも有香は、カスミの生き写しで、いわば自身の分身のような存在。
失踪事件がなかったとしても「石山との生活のためなら、子を捨ててもいい」と思った事実は変わらない。それを罰するカスミの気持ち・後悔でこの物語は貫かれている。


最初に書いたように、この物語にはオチがない。
登場人物も、ある時期のカスミにとって非常に重要な人物だが、すぐに物語から姿を消してしまう占い師・緒方先生など、掴みどころがない。
一方で、カスミも石山も内海も、子細なところまで書き込まれていて、物語の力というより、登場人物たちの魅力・人間臭さ(ここまで特に書かなかったが、ヒモになることで自由を得る石山というキャラクターも相当に面白い)で最後まで読ませる小説となっている。
過去の日記をよんでみると、これまでに読んだ桐野夏生の小説にも共通するようだ。


ただし、これまで読んだものに含まれない要素として、舞台である北海道の持つ引力のようなものがあるように感じる。上手く言えないが、桜庭一樹直木賞『私の男』やBL漫画『コオリオニ』は、いずれも北海道の持つ暗い一面・不吉な雰囲気が強く出た物語になっており、『柔らかな頬』もそれに連なる作品と言える。
直木賞を受賞している理由も、単にストーリーや人物造形だけでなく、舞台も含めた全体的な雰囲気が評価されているのかもしれないと思った。

参考(過去日記)

芥川賞直木賞etc の中で読書感想を書いた本をリストアップ。受賞作一覧のページにある選評を読むと、118回で候補作となった前作「OUT」の方が良かったとの声も多い。